世界の頂上でエンジニアリングと建築のコンバージェンスを成し遂げたファズラー・カーン
構造エンジニアとしてのファズラー・カーンの功績は、今後もシカゴのシアーズ・タワー (現在はウィリス・タワーと呼ばれる) へ永遠に結び付けられるだろう。この 1973 年に完成したビルは、単に世界で最も高い建築物として人目を引くだけではなく、四半世紀に渡り、構造の可能性と美しさの探求、構造効率の融合を体現するものとなってきた。
モダニズム建築を特徴とする建築事務所 SOM で働いていたカーンは、60 年代後半にシアーズとの初期のミーティングに参加。ビルの上層部では外周に沿って空間が最大限に得られるようにし、窓を設けて、賃貸料を最も高く設定できるようにしたいと考えるようになった。考えられるアプローチのひとつは、同じくシカゴにあるジョン・ハンコック・センターのような先細りのビルにすることだった。だが、根っからのイノベーターであるカーンは、それでは不十分だと感じた。そしてエンジニアリングの研究チームを召集すると、新たな構造のコンセプトを磨き上げる。それがバンドル チューブ構造だ。
正方形の垂直管 9 本を束ね、より大きな柱とする配列構造のアイデアが功を奏した。1966 年にカーンとの仕事をスタートさせた SOM 名誉パートナーのジョン・ツィルス氏は「そうしたチューブを製造してから搬入するアイデアは、空間プランニング上の要件に対処しながら、極めて効率的でムダのない構造を作れるのだと気付きました」と話す。
この新たな方法論により、カーンと彼のチームは世界の最高峰へと到達する。1978 年にシカゴ美術館で録音された口述歴史記録で、カーンは「これは意図したものではありませんでした」と語っている。「シアーズが企業イメージを強調するために無理強いしたと思われているようですが、何も強要しませんでした。それは私たちも同じです。あのビルは、もう 30 m や 60 m 高くすることもできたかもしれません」。
カーンのキャリアの礎となるこの記録は、彼が構造エンジニアリングを単なる問題解決に留めず、全体的な建築フォームに融合させたことを示している。カーンは高層ビルの建設手法に革命をもたらし、斬新なまでにシンプルなコンセプトに磨きをかけた。モダニズム建築をさらに向上させた形式的表現を用いて、ビルをさらに高層化させたのだ。
カーンは、1929 年に英領インドの東ベンガル (現在のバングラデシュ) で生まれた。フルブライト奨学金を得てイリノイ大学アーバナ・シャンペーン校に進学。1955 年までに構造工学、理論力学と応用力学の修士号、さらに構造工学では博士号を取った。
1960 年に SOM へ加わったカーンは、当初から疲れを知らないメンターだった。イリノイ工科大学 (IIT) の非常勤教員でもあり、学生たちと連携して、後の建造物へ使われるようになる数々の構造上のイノベーションを生み出した。
1966 年のシカゴの DeWitt Chestnut ビル で、カーンは世界を変えることになる構造の完成に着手した。それがチューブ構造だ。チューブ構造は、ほとんどの垂直構造要素を高層ビルの外周に移動させることで、横力への構造抵抗を大幅に向上させる。
カーンによる、20 世紀初頭の高層ビル デザインからのコンセプチュアルな一大転換は、高層ビルを 2D 構造フレームを繋げたものでなく 3D オブジェクトとして捉え、強靭で風や地震の揺れなど横方向の力に耐え得る一体化されたスキン、ファサード、構造を生み出したことだ (風や地震活動は建物の高さにおいて重力より大きな障害となる)。カーンは一体構造からスタートし、窓と仕切りで空間を区切っていった。
このチューブ構造は、その後も継続的に改良されていった。カーンの次のステップは、100 階建て、高さ約 365 m のシカゴのジョン・ハンコック・センターだった。このビルのトラス チューブ構造では、カーンは斜材を使用し、ビル全体でトラスが各垂直材にまたがるよう配置した。象徴的な X 形の外壁ブレースは、この高層ビルを際立つものにした。こうした筋交いを使用しない場合、横荷重と重力荷重の大部分に個別に対処する必要がある。これらの筋交いは、複数の垂直材にわたって荷重を伝達させ、負荷を分散させる。これは SOM とカーンが手がけた、視覚上の直感的デザインのひとつだ。
シアーズ・タワーのデザインで、SOM は 41 万平米のオフィス空間の設計を迫られることになる。チームはまず、低層で幅広なビルを検討した。だが、最終的にチームはカーンのバンドル チューブ構造を使用して、小区画なモジュール要素へと分割するプランを選択した。9 本のチューブの強固な外周は、108 階、約 442 m にわたり、それぞれが互いに、植物の細胞壁のように固定された。カーンは IIT での研究を基に、タワーの基本構造をブルース・グラハムとともに 20 分ほどでスケッチした。
このプロジェクトは、カーンのイノベーションの典型例だ。彼は新しいソリューションを、実際にそれを試す機会がないうちから準備していることが多い。絶え間ないカーンの研究は世界をリードするものであり、プロジェクトに対して新たなコンセプトを考案する必要はほとんどなかった。
「彼は常に現状に満足していませんでした」と話すイリノイ大学アーバナ・シャンペーン校工学部のミール・アリ名誉教授は、「Art of the Skyscraper: The Genius of Fazlur Khan」の著者でもあり、1980 年代に SOM でカーンともに働いていた。
カーンの構造効率の追求は、シアーズ・タワーでその頂点に達した。その許容強度は 1 平方フィートあたり 15 kg で、60 階建てビルと変わらない。「桁違いのレベルでした」とツィルス氏は話す。
カーンの口述歴史記録によれば、シアーズ・タワーのクライアントは「品質を極めて重視していましたが、コスト意識も高く、まさにシアーズのワイシャツそのものでした。良質でありながら、高価ではありません」とされる。チューブ構造の構造効率は恐らくカーン最大の功績であり、材料、内包エネルギー、労力の削減は現在のサステナビリティの定義にも合致する。「どのビルも、エンジニアにとっては研究センターのようなものです」と、カーンは語った。
その建造物は非常に実験的であり、建築家とエンジニアの間で深い連携が必要だった。SOM のデザイン パートナーであるグラハムの影響も、特筆に値するだろう。グラハムは創作においてカーンとは好対照で、ハンコック・センターやシアーズ・タワー、その他の建造物のデザインへともに取り組んだ。カーンにとって、専門建築に道を譲った近代以前の棟梁の伝統に次ぐ良策がコラボレーションだった。「15 世紀の棟梁は、エンジニアであり、建築家であり、配管工だったのです」と、カーン。「棟梁はすべてをこなしていました。でも現在の技術は、とにかく複雑すぎます」。
カーンのチューブ構造は、純然たる「テクノロジーをベースとする構造建築」への新たな第一歩だったと、SOM コンサルティング パートナーで、カーンと仕事をしたビル・ベイカー氏は話す。チューブ構造ではスキンと構造は統合され、材料の序列は消える。ハイブリッド スチールやコンクリート構造から V トラス ダイアグリッドまで、現行のさまざまな構造もカーンによる影響を強く受けており、驚くほどアクロバティックな構造が可能となっている。「こういった発展は、どれもチューブ構造の基本構想にルーツを持ち、それを拠り所としています」と、ツィルス氏は話す。
1982 年、サウジアラビアへ出張中だったカーンは心臓発作により 52 歳でこの世を去った。高層ビル・都市居住協議会は彼の栄誉を讃え、その名を冠したアワードを授与している。
カーンは常に、自身が扱う材料と自身の活動する分野に対して「共感と思いやり」を望んだ。「カーンは空高くそびえる高層ビルを構築しましたが、彼自身は非常に謙虚で分別のある人でした」と、アリ氏は話す。カーンと仕事をした人々は皆、彼の仕事に対するありのままの喜びと熱狂がそのインスピレーションの源だったと言う。
カーンは口述歴史記録で「この世には、本当に多くの可能性があります」と語っている。「自分の仕事を行うために、誰かをせき立てる必要はありません。それが楽しいから行うのです」。