リスペクト: 電球だけでなくモダンなR&Dを実現した発明家エジソンの業績
偉大な発明家トーマス・エジソンの業績が現代の生活に与えた影響は、評価しすぎることはないほど重要なものだ。
トーマス・アルバ・エジソン (Thomas Alva Edison; 1847年2月11日 – 1931年10月18日) は、白熱電球や蓄音器、活動写真の発明家者として有名だ。存命中に 1,093 件の特許を取得し、発明王と呼ばれ、「天才とは 1% のひらめきと 99% の努力である」というセリフも人口に膾炙している。
■エジソンの三大発明
- 蓄音機(フォノグラフ) 1877年
- 白熱電球 1879年 – 京都府八幡市の竹を用いたフィラメント開発により製品化
- 活動写真(キネトグラフ) 1891年
だが、こうした発明はエジソンの偉業の一部に過ぎない。没後 85 年以上が経過した現在も、産業 R&D 分野におけるエジソンの業績は、多くの科学者やエンジニアの共感を呼び起こしている。
若きエジソンの発明家としてのブレークスルー
エジソンは電信係として 15 歳のときにキャリアをスタートさせ、16 歳で自身初の発明品である自動電信発信機を開発している。その後数年間を、地方を飛び回る電信係、ときには発明家として過ごすと、21 歳でニューヨークに移り、Gold and Stock Telegraph Company で修理責任者の職を得た。この時期、エジソンは多数の発明を行っており、単線上で両方向に 2 件のメッセージを送信できる四重電信機などを生み出している。この装置の権利を 3 万ドルで売ったことが、発明家として初めてのブレークスルーとなった。
四重電信機の販売で得た収入を元手に、エジソンは発明品の開発にフルタイムで打ち込める工作室をオープンする。29 歳のとき、彼の特許の一部を所有する電気工学系企業が、エジソンにとって初の開発研究所をニュージャージー州ニューアークに開設する資金を提供。数年後、ニュージャージー州内の別の場所へと移るのだが、そこがのちに有名になったメンロパーク研究室だ。その後、ウェスト・オレンジに開設された、より大規模な施設へと移っている。この研究室でエジソンは、その功績の中でも最も重要な研究である白熱電球と蓄音機 (彼のお気に入りの発明品だ) の開発を行った。
最大の発明は、発明品ではなく「発明の手法」
エジソンの発明の成功に不可欠な、独自の作業方法を生み出したのが、メンロパークの研究室と工作室だった。そこは、歴史上初の R&D 研究室といえる場所だ。ミズーリ工科大学で技術の歴史を教えるジェフ・シュラム博士は「エジソンの最大の発明は、発明品そのものでなく、発明の手法だったのです」と話す。「メンロパーク研究室、特にウェスト・オレンジ研究室は、近代的な産業 R&D 開発室の先駆けでした」。
GE Global Research の主任科学者、ジム・ブレイ氏は「世界に大きな変化をもたらすさまざまな技術を研究開発すべく、メンロパーク研究室には、あらゆる人材、材料、プロセスが集結しました」と述べている。「私の知る限り、一企業の技術発明を促進する目的でこうした人材と資金、設備の複合体が作られたのは、これが初めてのことです」。
エジソンは存命中に 1,093 件の特許を取得している。これは、個人の取得数としていまも最大だ。エジソンは、当時最も重要な意義を持つ技術の発明者として広く認められた存在だが、そのアイデアの実現においては、彼の指揮下で働くチームが不可欠な存在だった。
白熱電球の開発を例に挙げてみよう。1879 年の春から秋にかけて、エジソンと助手のチャールズ・バチェラーは、理想的なフィラメントを求めて無数の材料を分析した。1879 年 10 月下旬、彼らは炭化綿フィラメントを見出し、14 時間半にわたって光り続ける電球の製造に成功する。そして 1879 年 11 月 4 日、エジソンを有名にした白熱電球の特許が出願された。
GE の発展と白熱電球の開発スタイル
このような白熱電球の技術研究開発への新たなアプローチが、「孤高の発明家」スタイルから、メンロパーク研究室のコラボレーティブで協力的なモデルへの転換となった。これは、エジソン総合電気会社 (Edison General Electric Company) をルーツするゼネラル・エレクトリック (GE) が、現在も模範としているモデルだ。
ニューヨーク州スケネクタディの Museum of Innovation and Science で GE の歴史的文献を管理する公文書管理人、クリス・ハンター氏は「GE は1960 年代までに、より大規模かつ分散的で、製品も多角化するようになったため、製品開発へより密接に連携した研究を望むようになりました」と話す。エジソンの没後も、GE の研究室はこの協調的アプローチにより発展を続けた。「GE Global Research は、製品開発に重点を置きつつ、照明器具やジェット エンジン、発電機や他の GE の主要なビジネスにおいて、10 年後、20 年後に目にするようになるかもしれない製品の研究を今も続けています」と、ハンター氏。
エジソンが R&D 研究室と電力を進展させたのは、恐らくは 1876 年に開催されたフィラデルフィア万国博覧会の訪問に関係している。そこでエジソンは、ウォレスとファーマーが発明したダイナモ (初期の直流発電機) を目にしており、この新しいテクノロジーに探究心が刺激される。その当時は多くの競争相手が、電力を発展させ、その商機を生かそうとしていた。分散型電力には、産業と公共の両方に対する利点があった。電動機は、動物や、燃費の悪い蒸気エンジンが供給する動力に取って代わるかもしれず、また電灯照明は上流気取りのろうそくや灯油ランタン、爆発の原因となることもあるガスなどを排除できる可能性を持っていた。
エジソンは直流電力の支持者だったが、それによって交流電力の支持者 (ニコラ・テスラやジョージ・ウェスティングハウスらがいた) との対立に追い込まれた。エジソンは、交流電力モデルの実用化に先駆けて発電、供給システムを開発し、このテーマに関する公の議論の最前線にいた。だが、結局は交流電力が勝利を収める。長距離の伝送が容易で、電動機への電力供給に適していたためだ。
だが、米国人の多くが初めて触れた電灯照明は、エジソンの直流電力システムによるものだった (エジソンが特許を取得した電球に電力を供給していたのも直流電力だ)。彼が関与していたという事実は、新技術が大衆へ受け入れられる際に大いに役立った。
「Empires of Light: Edison, Tesla, Westinghouse, and the Race to Electrify the World」の著者で歴史学者のジル・ジョンズ氏は「トーマス・エジソンは、白熱電球の“問題”を解決してメンロパークの魔術師という名声を得た時点で、既に世界で最も有名な発明家でした」と述べる。「彼には持って生まれた、自分を売り込む才能がありました。それ故に、彼の公衆安全への献身的な取り組みはよく知られ、また高く評価されていました。エジソンが電力を新技術として提案しているのであれば、それは安全なものに違いない。彼を敬愛する市民は、そう考えたのです」。
1931 年に没するまで、エジソンはその他の分野でも重要な功績を残した。第一次世界大戦中、エジソンが行った国防関連の開発には、音波を利用した飛行機探知装置、改良型魚雷、潜水艦のデザイン、機雷がある。エジソンがもたらした不朽の遺産は、数世紀にわたって照明として使われてきた直火への依存を終結させ、電灯の世界への最初の第一歩を記したものとして、今後も語り継がれるだろう。だが彼の近代工学への貢献、つまり専門の産業研究所も、同じく今後も存続し続けていくに違いない。